昭和四十七年三月三日 朝の御理解
隣知らずの安産七人の子供たち
X御理解第八十五節 「女の身の上、月役、妊娠、つわりに腹痛まず、腹帯をせずして、産前、身軽く、隣知らずの安産。産後、よかり物、団子汁をせず、生まれた子に五香いらず、母の乳をすぐ飲ませ、頭痛、血の道、虫気なし。不浄、毒断ちなし。平日のとおり」
私は今朝から、こんなお夢を頂いた。丁度善導寺の駅のような感じですけども、駅ではなくて、何か神社の境内のような感じで、駅のような感じで、神社の境内。その神社の境内で、茶店があって、その茶店へ私が寄っているのです。そしたら、その茶店でお茶を飲んでいた、余り品は良くないですけど、ジャンバーを着た人が、お茶を飲んで頂きましたが、「もう一ぺんおみくじを引いて来る」と言っておるところです。神社の境内です。私はこちらでお茶を頂きながら、それを見ていた。
そしたら、おみくじを引いて帰ったらしいですが、どうも鎮痛な顔をして、またやって来た。そして、茶店のおやじと何か話して、ですから、はは、おみくじが、よいおみくじじゃなかったばいなと。だから、おみくじはどげんしたかと私は聞いてみろうかと思ったけど、黙っとったら、いよいよ何かこう沈んだような顔をしておりますから、私がね、「私は合楽教会の教会長、大坪というものですが、あなたが私の方へ一ぺんお参りして来なさらんか」と。「そして、おみくじを引きなさるなら、必ず大吉が出るでしょう」と私が言いよるところでした。「あなたはどこです」と言いますと「私はそこの飯田というところです」と言うのです。
丁度善導寺の駅のようですけど、神社の境内のようです。それで、茶店でお茶をよばれて、そしたら、何か迷い事があると見えて、その前にもおみくじを引いてよくなかったらしい。だからもう一ぺん引き直そうというわけで、引きに行ったら、尚悪かったいう感じで茶店に戻って来た。
それに対して私が、あまり気の毒だったから、「私の方へ一ぺん出ておいで、私は合楽教会の教会長、大坪総一朗という者ですけど、一ぺん出ていらっしゃい。あなたどこですか」と言うたら、「私は飯田です」と。この下の、駅の下に飯田というところがあります。
そして、その人は、話は聞いたわけではないけれども、そういう感じだったのです。引き上げ者らしい、だから、外地へ居った時分は、鼻髭の一つも立てて、威張った生活が出来たらしい。けれども、見てみると、屋台を引いて、おでんとも、ぼた餅ともつかんような物を屋台の上にのせて、まあ、それを売って歩いている、という感じです。そして、その人の家は飯田だという。
そしたら、途切れたようだったが、やっぱり、同じ夢を見てから、先生、あなたの言いなさる通りもうここに参って来たごたる風である。そこは頂かんようだけど、参ってきたようにある。「おかげで今度は大吉が出ました」と言うて、御礼に出て来ているところであった。それで、私また、言っていることは、「おみくじは大吉であるということは、今から大吉のおかげを受ける、受けるものを今から作って行かねばいけんのですよ」と。「大吉のみくじが出ただけじゃいかん。言うなら、神様の大吉の出るようなおかげを下さるから、それをどっこいと受けれるだけの力を、今度信心によって頂かねばいけませんよ」と。「あなたは飯田の人でしょうが、飯田というところは、飯(めし)の田と書いてある。飯田、けれども、こんど来る時には、あなた、一ちょ鼻髭をおとして来なさい」と。言わば私が一番嫌いですから。
久富先生がそげんでしたね。初めのお参りの時は鼻髭、やっぱり、あちら南方からの引き上げです。南方の土人あたり、鼻髭には弱いそうです。鼻髭たてとると偉いということだということ。どうして、たてなければいけんからたてた。初めの間はそのまま参って来ておりました。本当に椛目の信心が有り難いということがわかって、ある日私がそれを言った。「久富さん、今度来るときは鼻髭をとって来なさい」と言った。それから、その翌日から、鼻髭を綺麗にとって見えましたが。それと同じようなことを、また言っているのです。「今度、あなたが参って来る時には、その鼻髭をとって来なさい」そういうようなお夢でしたけど。
今日は私、この八十五節を頂いて、その夢とどういう関連があるであろうかと思っているのでございます。お互いが飯田、ままになるおかげの受け物というのは、皆が持っているのです、誰でも。そこで、誰でも、やっぱり不遇な時には、やっぱり幸せになりたい。やっぱりそこに、いろいろと迷いが起こって来る。おみくじ一つにしても、良かればよいけれども、良くないとくっとする。これはね、結局これは、良いおくじを頂きたいと思うなら、良いおみくじの頂ける内容を作らにゃいけんです。
菊栄会の人達と一緒に、日田に、大祭後の慰労会に、あちらに案内を受けた。ところが、えらい、高塚の御地蔵さんというのが有名だから、いっぺん御参りして見ようかと思って、皆で御参りさせて頂いた。その時にみんなおみくじを引いた。私もおみくじを引いた。ところが、丁度大きな瀧のようなもの、言わば天下に轟くような瀧だというような、しかも、勿論大吉でした。もう私のことをぴったりと、まあ、言うなら内容のくじでした。問題は内容なんです。
そこで、「あなたが大吉を引きたいなら、私のところへ一ぺん参っておいで。私は、こうこういう者だから」と言うて参って来たらしくて、その次に来た時には、「おかげで先生、こんどは大吉だった」と御礼に出て来た。そこでまた、私が言っていることが、飯田、「あなたは飯田の人だから、それを受けられる物を持っているのだから、誰でもおかげが受けられる物を持っておるのだから、そういうおかげを受けられる。どういうおかげを頂いてもむせない、どういうおかげを頂いてもそれをどっこいと受けられる力を、これから頂かねばいけませんよ」と。「さあ、しっかり信心をしておいで」と。「この次に参っておいでの時には、その鼻髭をいっちょ剃っておいで」と。
人間がね、謙虚になれということだと思いましたね。鼻髭とは威張ることだと思いしたね。そして、屋台ども引いて、まあ、ぼちぼち生活を立てとるという程度のことということもありましょうけれども、屋台ということは難儀を自分一人でひっかろうとるといったような感じですね。自分の難儀にしてしまっている。屋台骨というでしょう、大きなあちらは屋台骨と。その屋台を自分が一人で引っ負うとる。だから、いつもきついのです。
この辺のところが、いよいよ信心ですね。いわゆる、観念のお供えをして、また新たな間違いのない観念を頂くということなのです。例えば、借金を持っておりましても、それはあなたの借金ではない、神様へお預けなさい。神様が借金は払うて下さる。そのためには、神様が御主人ですよ、あなたは番頭さんですよという、湯川先生の御取次の筆法とでも申しましょうか、大阪の信者さん方は皆それでおかげを受けた。
どんなに難儀のある場合でも、その難儀を自分でひっかろうておるのを、神様がひっかろうて下さるのだ。そのためには神様が御主人でなければいかん。あなたは番頭さんだ、家内は女中さんだということになってくる。今までは、自分の借金とばかり思うておった。その自分の屋台を神様に引っ張ってもらっとるからきついのである。これは観念ですね。観念のそういったスパーッとした御供が出来る。
それを今日の御理解で頂きますとです、「女の身の上、月役、妊娠、つわりに腹痛まず」こういうことがあるはずがない。普通の常識で言ったら、つわりもあれば、大変な妊娠、いわゆる生みの苦しみは伴うはずだけれども、腹痛まず。そのかわりに、「腹帯せず、産前、身軽く」とおっしゃっておられる。これが観念です。「いえ、もう昔から腹帯だけはしとるじゃけん、腹帯はせにゃん」と言う、その観念があるから、つわりもあれば、生む時に苦しいこともあってくるのである。もうこげなスッパリとしたことはないですね。 私の家内が七人の子供を持っております。愛子からこっちですから、光昭、幹三郎、直子、栄四郎、この四人だけはもう隣知らずの安産でした。それまではもう難産でした。
私の方は、豊美の時も難産で、こう頭が長かった。勝彦の時はもう死産でした。死んで生まれて来た。だからもうボロに包んでから庭の隅の方に置いちゃった。そして、家内の方の処置をされて時間があったから、お湯につけたり、水につけたり、叩いたりしよんなさったから、ギャーと泣き出した。それが、ここの二代になろうというような、おかげを頂いた。愛子の時には、こちらへ、お腹を大きいなりに船に乗って参りましてね、倒れ転びして来とりますから逆産でした。
だから、言うなら、愛子の時からおかげ頂いた。こちらへ帰って熱心に信心しとる時でしたから、お参りをさして頂いて、お届けをさして頂いたら、丁度この八十五節の御理解
じゃった。この、掛かっとりますもんね、教えの帳面が、それがそれじゃった。あ、これはおかげ頂くばいと、一生懸命御祈念しよったら、今から考えて見ると、あれがやっぱり御神事だったでしょうね。
今ごろコケッコッコと鳴くはずはないとに、コケッコッコの声を聞いた時に、あ、生まれたと思ったですね。時計を見たら、七時何ぼという時間じゃった。不思議なことですよね、私共が北京時代にかかっとった産婆さん夫婦がその前日に大分からやって来とりました、ある事情で。その人は逆産専門というような産婆さんでした。 永口さんというて。だから、逆産だといって、他の産婆さんに頼んであったばってん。「いや、他の人ではいかん、これは私の専門じゃから」と言うて、「大坪さん、心配なさいます」と言うて。産気づいたので、すぐお迎えに出ましたら、今のような丁度八十五節が暦の上にあって、しかも御祈念中にコケッコッコーと鳴き声聞いた。何もその時分はまだわからん。帰ったはなだからね、神様からいろいろ頂くこともないから。けど、あら、今生まれたなという気がしましたから時計を見ましたら、七時何ぼという時計だった。
それからすぐ帰らせて、もう表までその産婆さんの御主人が、私が帰るとを待って、「生まれた、生まれた、」とこう言いよる。「何時じゃったか」「七時何ぼ」、同じ時間でした。ですから、言うならもう愛子の時から、もう首には二重もへその緒が巻いとったですね。だからこの辺の田舎の産婆さんどんなら、大事しとりますよと言うような、これも愛子からこっちが、そういうおかげ頂いとります。
あれは何番目の子供だったでしょうか、二階から一ぺん、もうお腹が大きい時には真丸うなっとりますからね。それも一番上からころころ転がって落ちたことがあります。それかというて別にどうということもない。もうそれこそ、つわり知らず。もう栄四郎が生まれた時には快感を覚えたと言うとります。もちろん、こちらに帰りましてからは、腹帯しめたことは決してありませんでした。
本当にそういう観念を捨て切った時に、そういうおかげを頂く。だから今でも、妊産婦の方がお願いもしてから、奥さんと広前で会うたりしたら、ああ、おかげ頂く、安産のおかげ頂くと言います。また、実際おかげ頂くです。だから、お産の時は、「奥さんにお願いして来なさい」と私が言います。これだけは体験者ですからね。 自分がというように、その観念を、腹帯をせずというような観念を、教祖のおっしゃる通りをさしてもらうところに、隣知らず、確かに安産のおかげを頂くということです。そして、私が今、お夢を頂くそれと、観念を捨て、屋台を自分が引っ張るのじゃない、神様に引っ張ってもらうのだという、観念にならせて頂くところから、隣知らずの安産のおかげが頂かれるのです。
良いものが生まれる。私は今日、八十五節といういうところをね、八十五節ということは、もう広がることだと思いましたね。五節というのは丁度真ん中ですから、節と思いましたね。私共良いものが生み出される前に、途中にやはり節がある。いわゆる、つわりならつわりという節がある。五節と言うのは丁度節があると思う。そういう風に私は頂くと
思う。
そして、私が頂いたお夢と、それとを頂き合わせて、これは、女の月役、妊娠とか、このお産の時だけの御理解ではない。これを私共の生活の上に、良いものが、いよいよ、良いものが生みなされる前の前提として、その前夜祭のようなもの、良いものが産まれるようなもの。もう絶対ここだけは通らなければならないというもの。それは皆さんも体験しとられましょうが。
私の信心を見て下されば一番よくわかります。いよいよ繁盛する、いよいよ広がるという前には何かがあった。そこんところ、観念を捨てて、神様にお縋りをするということに、「不浄、毒断ちなし。平日の通り」どういう難儀であっても、平日の通りでおられるようなおかげを頂かにゃいけん。隣知らずの安産、産後よかりものに団子汁をせず、もたれもの、いよいよ産後のいろいろわずらわしいものがありますでしょうね。それを、よかりもの、団子汁をせず、そういう神様のおかげを頂かにゃいけん。
悪い意味で副産物ですね、差し障りがない。神様のおかげ頂くということはスキッとしたもの。そのために、観念の、今までの観念のお供えをさして頂いた。新たな観念、観念のお供えということに対して、私は観念のお供えをしたら、いわゆるより本当な観念が、また、こちらに入って来るのですね。
例えば私が風邪を引いておる。けれども、それはなるほど寒い思いをしたから風邪を引いたんだというこの観念。私共はそれをいっちょも思わん。もうもう神様の御都合だという観念。
例えば私が、これはよい意味ではないでしょうけれども、胃がやけると言いますね、胸がこげるという時には、必ず私は昆布を頂くと、どろどろなること噛む、を頂いたら一ぺんに治ります、これだけは。お通じが悪い時に、唐芋食べたらこれは絶対お通じがあるです。だから、辛いものに頼るわけじゃない、昆布に頼るわけじゃないけれども、その観念がそう思っているのです。
そこで今朝から頂いたそのお夢を、八十五節と頂き比べながら、対照しながら、当てはめて頂いて頂きたいと思います。当てはまるでしょうか、「今度来る時には髭をとっておいで」と。その前には、「合楽に一ぺん来るとおみくじが、あなたが大吉が良かなら、大吉が出るようになります」と、お参りしたばっかりに大吉が出た。くじが出ただけで、大吉のおかげを神様が下さろうとしても、それを、受け物がなかったら出来ん。
お互いが、飯田、おかげの受けられる受け物というものは、誰でもが持っておるのだ。誰でも受けられるのだ。だから、受ける姿勢を作らにゃいけんのだ。いかに田を持っておっても、種を蒔かなかったら、芽は生えん。これは、誰でもおかげが受けられる。あの人はおかげを受けられて、この人はおかげを受けられんはずはない。そのためには、「さあ、この次に来る時は髭をとっておいで」ということである。
人間本当に土のような、土のような心の、土の信心というか。傲慢無礼というか、そういう態度というものが段々抜けていかにゃいけん。威張る心というのが神様が一番嫌い。
いわゆる、低姿勢であり、謙虚な心に、おかげは低い方へ、低い方へと流れて行く。
私は昨日午後の奉仕をさせて頂いている時に、日田の綾部さんがお参りになった。丁度参られる前に、これは確かに孔子の言葉だと思いますがね、「その愚には及ぶべからず」と言っています。愚とは、おろかという意味ですね。「その愚には及ぶべからず」もう馬鹿と阿呆になっとる者には、勝てんということです。どんなに偉い人でも、どんなに知恵のある人でもね、もうこれには勝てん。
丁度これを書き綴っとる時に、日田の綾部さんがお見えにあった。今日実は福岡行きでございました。ある事件で行かれた。ところがもう、剣もほろろ、向こうでは会いたい人に会わせてもくれんかったというようなお届けでした。ああ綾部さん、私はこんなのを頂いたのですが、これはあなたのことじゃろうと私は思う。だから、あれこれ手を打たずに、そのまま帰って参りましたとこう言う。そこですよ、ここは一つ馬鹿になっときなさい、阿呆になっときなさいということですけれども。もうその愚には及ぶべからず。
そこで、ならば、ここで何を稽古しておるかというとです。腹帯をせずというようなね、心には少し不安なのです。言うなら、教祖様が「もう腹帯はせんでもよか」とおっしゃるけれども、今まで永年腹帯をして来たのに、教祖様がおっしゃるから、まだ少しは不安だけれども腹帯はせんでおるというのですから。それが二人目になり、三人目になり、私の方の家内のように段々体験者になって参りますと、その方がおかげであるとはっきりわかって来るようになる。
それから、それを真に受けられる人はまずなかろうと思う。「馬鹿になりなさい」と言われるから馬鹿になっとるとに、やはり心配だというのが本音じゃないでしょうか。それを馬鹿にならせて頂く、言うならば稽古をするわけであります。「平日の通り」などということは仲々難しい。やはり心も穏やかではないけれども、私はそういう、本気で馬鹿と阿呆にならせてもらう稽古をさしてもらう。本気で鼻髭をおとさせて頂く。そこにその飯田がいよいよ肥えて来るわけであります。
八十二節に「女は世界の田地である、世界の田地を肥やしておかねば尊いものは生まれない」と言われております。そういう間にです、いよいよ尊いものが生まれて来る。良いものが生まれてくるためには、必ず、八十五節じゃないけれども、広がって行くおかげを頂くためには節がある、必ず。その節をいよいよ、馬鹿と阿呆で受けて行く程しの信心と、謙虚な土のような心の信心とが、段々出来て行く。その田地がそのように肥えて行くから、尊いものが生まれて来る。
「天はその人に大任をあたえようとするその前に、必ず試練をする」というような言葉がありますね。素晴らしいおかげを頂かして頂く前には、やはり素晴らしい修行が必要である。いよいよ、良いものが、尊いものが生まれて行く前にです。本当にお互いが大々的なおかげを頂かして頂くためには、まず合楽に参って来なさいという。合楽に参って来たら、次には髭をおとして来なさいということになる。
そこからいよいよ飯田としての、肥えた土地にならして頂くその間がです、神様の願い
が成就する間であります。神様の願いが成就することは、私共の願いが成就してない。けれども神様の願いが成就するという。なら私共の願いが成就しない間に、私共の心の中に、いよいよ威大な心、底の抜けた程しの心、それを馬鹿と阿呆というのである。孔子はなるほどよいこととを言っておられます。その愚には及ぶべからずと言うてあります。
私はそこのところの蚊取り線香になれと、あれは左巻きだと。ただし、馬鹿になっとるだけではいけん、火がついとらにゃいけん。ここのところが少し違うね、孔子の言葉と、私の場合は。勿論左巻きになっただけじゃなく、熱があるのだけでなく、燃えとらにゃいかん。それからです、わずらわしいものは落ちてしまうというのが、私の頂いてある愚であります。馬鹿と阿呆であります。
それは私が馬鹿になっとりゃよいというだけではいけん。といったようなことだけではいけん。いよいよ、そこに精進させて頂かにゃならん。腹帯をせんというだけでも、やはり度胸のいること。けれども成程、御神意のまにまに頂かして頂いたら、おかげで安産のおかげを頂いたということになる。それが二人か三人目になって来るとです、もうそれが本当のことだと観念になってしまうのです。腹帯をするのが本当だという観念を捨て切ってしまって、腹帯をしないのが本当だと信じ切ってしまう。その頃にはもう、言うなら産みの苦しみという程しのおかげ、いわゆる隣知らずのおかげが頂かれる。今日の八十五節をそのような風に頂いた。
私の頂いた今朝からの夢を、八十五節とを対照して、もういっぺんよくよく考えて見て、そして孔子の言葉である「その愚に及ぶべからず」と言われる精進というか、それには先ず私共が何と言うても、謙虚にならなければいけない。そして、どのような場合でありましても、どのような問題を持っておりましても、その屋台を自分でひっからうようなことをせずに、自分で引いて回るようなことをせずに、神様に引いてもらうところから、「平日の通り」という、いわゆる、私共の信心の目標であるところの、いつどんな場合であっても、平日の通りと言われるような心を頂かしてもらう稽古をさしてもらうのです。どうぞ